千人風呂と三助

千人風呂と三助(湯治を自宅で…)

聖武天皇皇后である光明皇后の千人施浴のお話です。
天平9年(737)、諸国で天然痘が猛威を奮い、光明皇后の兄の房前(ふささき)、武智麻呂(たけちまろ)、宇合(うまかい)が亡くなりました。
立て続けに兄たちを亡くした光明皇后は、生家藤原不比等の邸を寄進し、法華寺を建立して兄たちの菩提を弔います。
法華寺は天平時代、光明皇后の勧めにより日本総国分尼寺として創建されましたが、正式な寺号は「法華滅罪寺」です。

天然痘は奈良の都でも多くの死者を出しています。
光明皇后は夢で仏のお告げを聞き、自分の屋敷に風呂を作り、「我自ら千人の垢を去らん」と、貴賤を問わず千人の施浴を誓いました。
最後の一人は肉がただれ、膿が出ている癩病人でしたが、皇后が躊躇することなく、みずからの唇で癩患者全身の膿を吸ってあげると、病人は大光明を放ち、いずことなく姿を消しました。
病人は阿閃如来の化身でした。
皇后様は自分の願いが達せられたことをお喜びになり、これが千人風呂の起源となりました。
施浴伝説に基づく「カラ風呂」は本堂の東方の庭にあります。

光明皇后は千人の施浴の際、同じ信仰が厚かったお手伝いの女官(早蕨、小菊、皐月)に手助けをしてもらいました。
お手伝いの女官のことを「典侍(ないしのすけ=付き人)」といいます。
人々はこの3人を三典(さんすけ)と呼びました。
これが、銭湯で風呂を焚いたり浴客の体を洗う男、「三助」の由来となったといわれています。
posted by yunyun at 2006年03月15日06:39 | 入浴の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする